うに姫自己紹介
こんにちは!
大きな声が特徴の「うに姫」こと嶋田寿美子です。
しかも3人姉妹の長女という環境で育ちました。
父方の祖母からは「あなたは会社を継ぐ宿命なのよ」 とかねがね言われ、
母方の祖父からは、遊びに行くたびに、
当時わけのわからない経営に関する話や仏教に関する話を
聞かされて育ちました。
私は
「いっそ男に生まれたかった」とか
「なんで、うに屋なんてマイナーな 商売をするんやろう」と、
その運命から抜け出したい一心でした。
とはいえ、家族や友達や先生にも恵まれ、すくすくとまっすぐに 育ちました。
小学校3年生の時、野外活動に参加して、
キャンプや山登りが 大好きになりました。
その時お世話して下さったハスキーボイスの 山男のおじちゃんが、
とても面白くて、かっこよくて大好きになりました。
自分も将来、このおじちゃんのようになりたいと思いました。
子供をキャンプや山登りにつれていけるような人になろう。
そのためには、お金持ちにならなければ、
と思いました。
進研ゼミの付録で職業の紹介があり「初任給30万円」
という文字 だけで、「公認会計士になろう!」と心に決めました。
公認会計士 になれば、スゴイ資格でお金持ちになり、
誰にも文句を言わせず会社を継がなくて済むだろうという
考えがありました。
(でも、もし継ぐことになっても、公認会計士の 資格は
役に立つに違いないという考えもひそかにありました。)
とにかく、都会の大学に入って、公認会計士になってお金持ちになりたい、
下関から脱出したい一心で、勉強しました。
小学校の時、水泳大会(種目は50メートルクロール)で優勝しました。
(4つの小学校が集まって行うような小さな大会でしたが)。
これは恵まれた体格のおかげと思っています。
中学に入ってからは、バスケットボール部に入りました。
先輩から1年生が呼ばれて、 いびられる時、
「あっ嶋田は、い~け~」となぜか特別扱いしてもらいました。
その理由はわかりません。
が、災いは私を避けてくれているなと感じることはよくあります。
渋谷(しぶたに)という私語をするとボールを口につっこまれる
という 伝説の厳しい英語の塾に通いました。
でも、なぜか先生は私を叱ることは、ありませんでした。
授業中に、妄想(付き合っていた彼とキスする)してたときに
あてられたときは、さすがにビンタされるかなとビビリましたが・・・。
そんな塾に通っていたこともあり、またライバルの医者の娘と 競争して
切磋琢磨したおかげで、成績もトップクラス、 中学3年の時は
女生徒会長になりました。
でも生徒会長になっただけで満足し、あまり活動しなかった ような気がします。
県内のトップクラスの高校に入り、水泳部に入り、 自由な高校生活をエンジョイしました。
高2の文化祭では同級生に誘われて、ロックバンドのボーカルを 務めました
(なんで、私を指名してくれたのかは不明です。声が大きかったからかなあ)。
自主的に沢山練習しました。快感でした。青春してました。
ちょうど彼氏もできて、水泳もバタフライで中国大会にいくことになり、 水泳の練習、ボーカルの練習、恋で忙しかったのを覚えています。
そんなこんなで、成績がガクッと落ちてしまい、気の小さい私は必死で勉強しました。
卒業時には文武両道の生徒に贈られる表彰も
そのライバルの医者の娘 (彼女はテニス)と一緒にうけました。 表彰されて今までで一番嬉しかったです。
大学はストレートで横浜の国立大学経済学部に入学(補欠ですが)、
早速公認会計士の勉強をしようと、昼間は大学、夜は簿記の学校と ダブルスクールをはじめました。
このダブルスクール計画を祖父に話したところ、「えらい!」ということで
学費をポンと払ってもらいました。
そんな簿記の学校でしたが、 途中から行かなくなってしまいました。
簿記の勉強がつまらなかったのと、
もっと面白いことを見つけてしまったのです。
それは、YMCAの水泳とキャンプのリーダー活動です。
最初水泳リーダーで入ったのですが、
飲み会の時隅っこで めちゃくちゃ盛り上がっている人たちがいました。
キャンプリーダー達でした。 即、キャンプリーダーにいれてもらい、毎月2回多いときは3回野外活動に 子供と一緒にでかけました。
夏休みはキャンプ、冬はスキーと とても楽しかったのを覚えています。
また、研修でグループワークについて 勉強したこともとても役に立ちました。
キャンプリーダーをしていた嬉しかったのは、子供の保護者から
「あなたみたいな人に自分の子供を育てたい」といわれたことかな?
たぶんすくすく育った感じがよかったんだと思います。
得意技はキャンプファイヤーの時の「猛獣狩り」というゲームで
これは嶋田リーダーの十八番ということで大声で半狂乱で盛り上がりました。
将来の夢がここで叶ってしまったなあと思いました。
同級生が銀行や商社に就職する中、私は子供服のミキハウスに就職し、
大阪の本社で営業アシスタントになりました。
履歴書の特技のところには「大声」と書きました。
ミキハウスの木村社長には、柔道の田辺陽子選手に顔が似ている
ということで 気に入っていただき、採用していただきました。
後で、入社した人たちと話をしたところ、特技に「大声」と 書いていた人が数人いました。
ミキハウスは声の大きい人が好きだったみたいです。
会社はとてもいい人たちばかりで仲間にもお客様にも可愛がられました。
初めての展示会では、オリジナルの名刺を作って配ったところ、 大ウケで、人気者になりました。
志願してなったものの、いきなりの営業アシスタント業務は 勉強とは違って、
ただがむしゃらにやればいいというものでもなく、 つまづくことも多かったです。
よく泣きました。でも必ずフォローしてくれる先輩や同僚がいたので、 ありがたくて更に泣きました。
担当の地区に一番大口のお得意先様がいらっしゃって、
そこの専務から よく「仕事には学歴が関係ないということが
嶋田をみてよ~くわかった」 といじめられました。
お酒を飲みに行って、「飲め」といわれ
ランボルギーニという火のついたカクテルを飲んでも 全然酔っ払わない私をみて
「つまらん奴じゃ」 と怒られました。
私は礼儀正しくと思っていただけなのですが・・・。
でもその専務から、バーゲンのヘルプで大声で呼び込みをしたり、熊のぬいぐるみをきて チラシ配りをする私をみて、
「お前が一年目から営業っちゅうのがよくわかった」 と
褒められた時は嬉しかったです。
仕事に夢中になっていたのと、彼氏に振られて食欲がなくなっていたのと重なり、
体調を崩してしまいました。
足に斑点ができ、びっくりしてお医者さんに行きました。
「がんばりすぎ」といわれ、あ~働きすぎで病気になるということもあるのねと思いました。
ミキハウスで3年半勤めた後、故郷にもどり今の会社に入社しました。
理由は「アシスタントじゃなくて、自分が売上をコントロールする 営業になりたい。売るものはなんでもいい」
と思ったからでした。
ミキハウスを退職する時には、お世話になった人たちに何か御礼がしたいし、
やまみのことも宣伝したいと思い、ミキハウスのロゴとやまみのロゴがはいった
テレフォンカードを作り、みんなに配りました。
(本当はそんなことにロゴを使っては いけないのですが・・・。)
車の免許を持っていなかったので、急いで車の免許を取って
やまみうにに入社しました。
最初は下関市内の営業担当で、 となりに、もうすぐ70歳で定年になるおじいちゃんに乗ってもらって 運転しました。
そのおじいちゃんはかなり怖かったらしく
いつも助手席でハンドブレーキを握り締めていました。
さすがにミキハウスで鍛えられただけあって、ノリノリで営業しました。
その後県内の営業になり、若葉マークをつけて、
毎日高速道路に乗って、 配達をしました。
通信販売の担当にもなって、営業しながらカタログの制作なども行いました。
下関に帰ってからは、親の七光りのおかげで、沢山の知り合いができました。
私を「うに姫」と呼んでくれて、「うに姫を結婚させる会」が結成され、
目標設定をして、お見合いをしました。
おかげさまで素敵な婿養子をむかえる ことができました。
その後、運転しすぎで?流産したこともあり、事務職に異動になりました。
そうすると、総務経理の責任者の専務が退職することになり、
私はその仕事を引き継ぐことになりました。
総務経理の仕事は今までの私の仕事とは畑違いだったので
がちょ~んとおもいました。
今はそういうわけで、営業事務と総務経理の部署が合体した業務管理部の
係長として 元気に頑張っております。
相変わらず声は大きいです(そのかわり耳がちょっと遠い)。
将来は私が選んだもの手がけたことはすべて喜んでもらえて、
ヒットするような、センスのある人になりたいです。
やりたくないことは嘘のある商品を売ることです。
具体的にはやずやの会長のようになることです。
そして、子供をキャンプにまた連れて行きたいです。
あのおじちゃんのようにあこがれてもらえるような人間に
なれるように 自分を磨こうと思います。
ありがとうございました。